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【宮本武蔵】二天一流【新免玄信】

1 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/03 23:32 ID:1J7NzxqM
宮本武蔵の創始した二天一流について語りましょう。

2 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/03 23:34 ID:6L/3IuX6
きんたま

3 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/03 23:35 ID:Eo9xr04x
ぎんたま

4 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/03 23:35 ID:1J7NzxqM
実際のところどうなんだろう

5 :ドキュン社長:04/02/03 23:38 ID:DbccVjwk


6 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/03 23:39 ID:oY76gFHt
宮本6蔵

7 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/04 17:42 ID:r3/tlqnB
 現在伝えられている二天一流は、熊本時代に相伝となった寺尾勝信・信行兄弟のうちの信行の系統である。
この系統の正統は信行の四男新免信森に伝えられたが、信森の死後断絶。
 信森死後に兄の寺尾玄高が門人をまとめ、玄高の子志方之経、その子新免弁之助玄直と伝えられた系が山尾派として明治まで伝えられたが断絶。
 信森から相伝を受けた村上正雄から始まったのが村上派。
正雄は後に禄を召し上げられ信森から一時破門されたことから正当性がないかのように言われるが、後に破門を許されていたとの江戸中期の記録もある。
また生前の武蔵と親交のあった松井家の兵法指南の豊田景英は村上正雄の次男正之の代見となっており、二天一流では無く村上流と名乗らされたというのは江戸末期に他派が誹謗したものを二天記の末尾に付記として加えた説がひろまったもの。


8 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/04 17:45 ID:r3/tlqnB
 現代熊本を中心に行われている野田派は、村上正之の弟子野田種信が、寺尾玄高の弟子からも学びその当時の二天一流をまとめあげたもので、昭和までは村上派と呼ばれていた。
最近他派が中傷する別派と称したのは、昭和まで伝えられていた他の村上派の系統に対してであり決して正統の二天一流に対する別派という意味ではない。
山尾派・村上派・野田派の伝書・記録は現代でも多く残されている。

9 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/04 17:50 ID:r3/tlqnB
 山東派であるが、信行の六男勝行の系統と伝えられ勝行の弟子吉田正弘から山東清秀に伝えられ幕末明治の山東清武に伝えられたもの。
江戸期の相伝階級の記録をみれば、山尾・村上・野田の他派(すべて新免信森の系)すべてが五法より相伝させているのに、山東派だけが一刀より相伝させているなど他派との違いがある。
剣術・柔術を伝える山東家は、江戸末期・明治の熊本武道界の中心となり入門者も多数いた。
清武の弟子青木規久男が唯一人現代に伝え、現在活躍の山東派の師範たちすべては青木先生の系である。
不思議なことに、江戸期の山東派の伝書等はあまり残されていない。
 なお、一部山東派の人たちが兵法二天一流と称し、二天一流に派などないと主張し他者に山東系なる名称を強用、自ら派を称する野田派があたかも偽者の如き主張・宣伝をしているがなんら歴史的根拠はない。


10 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/04 18:53 ID:ZPfE80Jk
武蔵が父親から習った十手術ってどんなんだったんだろう?
馬術とか弓術とか柔術とかは習わなかったのかな?
それと「万事において師なし」って絶対嘘だろ。
どんな天才でも才能一本であそこまで上り詰めるなんて有りえん。

11 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/05 00:08 ID:4mDZWAqE
 養子伊織が書いた小倉碑文を読めば、父新免無二の十手術は武蔵の二刀の小太刀を十手に置き換えたようなものらしい。
右手に太刀、左手に十手というスタイル。

 五輪の書に
 兵法の利にまかせて諸芸諸能の道となせば、万事におゐて我に師匠なし
とある。すなわち、
 兵法の道理によって、書画や工芸を行えば、何事にも師匠はいらない。
という意味になる。つまり、兵法の道理がただ単に兵法上の技術的なものだけではなく、他に通じる普遍的なものであるという文章で使われている。
無論、武蔵自身が誰からも何も学ばなかったということは無いと思いますが。
 

12 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/05 11:10 ID:4mDZWAqE
演武会で野田派・山東派の両派が演武すると、ゆったりとした動きでたった五本の形を何分もかけて静かに演武する野田派を見てあれのどこが武蔵の兵法だろうと疑問を抱く者は少なくない。
実際ゆっくりであるということは、演武者の力量によっては単なる踊りになることもあるだろう。
その後、山東派が演武するとすばやい動きで、師範によっては相手の太刀をとばしたり大きな気合で演武し、二刀の形五本だけではなく、一刀や小太刀の形まで行いまさしく現代に残る武蔵の兵法といった印象を抱くものが多い。

13 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/05 11:14 ID:4mDZWAqE
 山東派八代の青木規久男鉄心先生は野田派について
「二刀之形五本のみ、剣理なく舞いて世人を呟躍するのみ」
と語っている。
 青木規久男先生は、二天一流だけでなく関口流抜刀術など多くの武芸を極められた方で、五方の形についても日夜研究、五輪書を参考にしながら自ら工夫し剣理にあった形に改変された。
また、それまでなかった小太刀の形などを創作、現在に伝わる山東派を作り上げた山東派二天一流中興の祖といえる人物である。
彼なくして今日の山東派の隆盛は無かった筈である。

 江戸期の二天一流の資料に武蔵の直弟子が語った言葉が残されている。
「武公兵法つかい至極静かにして譬えば江口湯谷などの仕舞を見る如し」
武蔵が兵法を行うときは非常に静かで、例えて言うならば能の舞を見ているようなものであったと語られている。
青木先生は武蔵に対して
「剣理なく舞いて世人を呟躍するのみ」
の言葉をかけたいのであろうか。


14 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/05 16:12 ID:4mDZWAqE
 昭和に熊本で、新陰流・野田派二天一流・雲弘流三流による展覧演武があった。
そのときの解説が

 二天一流兵法沿革
 当流は二天一流の別派にして新免武蔵を元祖とし野田三郎兵衛を流祖となす・・・。

とある。以下野田一渓種信がいかに朝鍛夕錬して寺尾家・村上家に伝わる内容の異同を比較し、原点である武蔵本来の二天一流を探求、終に一流を立て藩主より賞されたとの文が続く。
これは、野田種信の業績を称えたもので、これをもって、野田派は偽者という主張ができるだろうか。
また、当時はまだ野田派なる呼び名は使われていない。二天一流兵法なる名称が使われている。


15 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/05 18:59 ID:Ah5KXTCF
埼玉の川口付近で二天一流の居合いを教えている所教えて下さい。

16 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/05 23:53 ID:4mDZWAqE
 二天一流に居合はありません。
ただ、山東派八代の青木先生が関口流抜刀術をなさっていたので、山東派の道場の中には刀法を学ばせるために、関口流抜刀術を学ばなければ二天一流を学ばせないところもあります。
また、山東派の一部の道場では、関口流抜刀術を元に他流を参考にして二天一流居合なるものを作り修行者に学ばせているところもあるかに聞いています。

17 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/06 18:34 ID:gQOyk7p6
野田派兵法二天一流の荒木師範は熊本の県会議員であられる。
「野田派兵法二天一流」に商標登録をしようとしているし、
お酒の銘柄にも二天一流云々の商標登録を出願しておられ、
なかなか活発に活動をしておられるようだ。

18 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/06 18:36 ID:gQOyk7p6
「野田派兵法二天一流」じゃないよ「野田派二天一流」に
商標登録しようとしているの!

19 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/06 18:37 ID:gQOyk7p6
「野田派兵法二天一流」じゃないよ「野田派二天一流」に
商標登録しようとしているの!

20 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/06 18:40 ID:gQOyk7p6
ところで二天一流って、正式な名称は
・兵法二天一流
・二天一流兵法
・二天一流
・兵法二天流
・ニ天流兵法
・ニ刀一流
・武蔵流
のどれが正式名称なの?

21 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/06 21:05 ID:BRWStNNR
>>17
商標登録って、何を活動していらっしゃるのか・・・。
>>20
五輪書の記述を考えれば、
「兵法之道、二天一流と号し」
とあるから、二天一流が正式名称といえるかもしれませんが、史的にはどれが正しいとは決められないと思います。

22 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 10:05 ID:Y1J1g/Id
野田派二天一流は自分自身で「野田派二天一流」と名乗りますよね。
山東派二天一流については、山東派じゃない外部の人が区別するのに、
「山東派二天一流」と呼んでるけど、山東派やってる自分達自身では
自分達が「山東派だ」みたいな事は余り言わないみたいね。

23 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 12:55 ID:KzVpb3PZ
 山東派が派を名乗らないのは、山東派が唯一の正統である意識が強いからだと思われます。
各地に残した碑文でも、「兵法二天一流正統系譜」なる文字を刻んでいるのはその強い意識の表れです。
 熊本の二天一流の正統は、寺尾求馬助信行からその息子新免弁助信森に伝えられました。
ところが、信森が若くして亡くなったため断絶します。これが真の正統です。
 そこで、信森の兄玄高が息子志方之経に信森の後を継がせる形で流儀をまとめたのが志方派です。
この派は山尾甚助のとき明治を迎えその後、断絶します。
 ここまでが、厳密な意味での正統といえるでしょう。


24 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 13:00 ID:KzVpb3PZ
 残る三派ですが、信森の高弟で相伝も受けた村上平内正雄の村上派、村上派・志方派を共に学び両派をまとめ上げた野田一渓信種の野田派は、両派とも真の正統である信森の流れといえるでしょう。
実際、信行・信森の教えを伝える文献が数多く残されています。
 信行の子寺尾勝行からの流れが山東派です。
寺尾家から直接伝わったということで、流儀の正当性を主張しています。


25 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 13:02 ID:KzVpb3PZ
 寺尾勝行自身の力量は他派の記録にも見られるほど優れたものだったと考えられます。
 その後、吉田正弘、加悦和門等に伝えられたようですが、同時代の他派の記録に彼らの二天一流での活躍を述べた資料はありません。
二天一流の相伝者を書いた資料にも載っていません。
志方・村上・野田派は多く残されています。
ただ単に資料が見つかっていないのかもしれません。
 この派が隆盛をはじめたのは、山東清秀からで以後清明、清武と続きます。
山東清武は柔術・剣術の師範として幕末・明治の武術界で活躍しています。
その晩年の弟子が青木規久男先生です。
 ただ、この派には江戸期の文献資料が少なく、派内で伝えられた資料もありません。
相伝の証としての武蔵作の木刀が二本あるそうですが、江戸期の記録からそのようなものの存在は確認できません。
 また、江戸期の相伝の順序が他派は五方、三先の順番なのに、山東派だけ、一刀、五方の順で相伝させるなど他派との違いがあります。
 もしかすると、これらの他派との違いや、文書が一切なく口伝だけでしか伝えられていない山東派の特徴は、村上・野田派のみならず、志方派以上に正当性の証かもしれません。


26 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 17:04 ID:FH2ZPKQD
二天一流は派によっては、五方しかないと言う派もあると聞きますが、野田派においても、五方の他に三先と言う伝授段階があるのですか。
一般には山東派の一刀、小太刀、合口、五方と言う内容が連想されるのですが。(思い付きの為正確でなくすいません)

27 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 19:34 ID:yLqHhFna
>>25 そんなにすぐに山東派は一刀⇒五方の順に相伝と勝手に決けてよいのか?
   山東派の中の細川家○○兵法二天一流なんかは二刀から教えるのでは?

28 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 19:36 ID:yLqHhFna
>>27日本語にたってないぞ
   「決けて」って何だ?

29 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 19:37 ID:yLqHhFna
>>28 おまえのは日本語に「たってない」!?

30 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 20:11 ID:42QWVGTQ
宮田和宏ってどの系統?

31 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 20:26 ID:IVP+k6G9
二天一流の正統性とは一体なんなんだろう?
上の説明を読んだ限りでは新陰流や示現流のような、唯一無二の正統性を持った系統は存在しなかった
ように思えるんだけど。
正統でないと言う意味ではなくて、どの系統も正統ではあるが、他派よりも上席であると言う考え方(宗家制度)は
当てはまらないのではないだろうか?

32 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 21:23 ID:KzVpb3PZ
>>25>>26
 細川藩では武術の目録の数が藩士の相続の際の条件となっていたため藩が各流派の伝授段階が記録し、資料として残っています。
これによると
 山東派 一刀太刀・五法・三ツ先・拍子之打・紅葉之打・流水・二之越。
 野田派 五法・三ツ先・一拍子・流水・二越石火扉・多敵之位・岩之身。
 志方派 五法・三ツ先・拍子・石火・流水・張受。
となっております。村上派は省略しました。
 どの派も五法より上は五輪書・兵法三十五箇条とよばれる書にある章の名前です。
野田派のある師範によると、もともとは五法しかなく、藩の目録数相続の制に従わせるため、他流にならって階級を増やしたもので、それぞれの文章を写させていたとのことです。
 また、古い目録の写しは、五法・三先だけの記載になっています。
 明治期の記録から五法以上のものもそれぞれ技があったという説もありますが、今後の研究課題でしょう。
 なお、現在の野田派、山東派には、このような相伝は一切伝わっておりません。

33 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 21:47 ID:KzVpb3PZ
 実は野田派にも一刀の形が残っています。
これは、資料を調べると志方・村上・野田派に江戸期より伝わっていたもので、各派の内容・本数は多少異なりますが、同じ系統です。弟子たちが、二刀五本の形では教授する上で不足であるので、他流の形より作ったと記録に残っています。
野田派の一部の師範は、この形は、武蔵が二天一流を完成する以前の円明流の形であると主張していますが全く根拠がない誤りです。
 山東派の江戸期の記録には一刀の太刀は確かに存在していますが、他派のものとは明らかに異なったものです。
現在行われている一刀太刀はこれがもとになったものと考えられます。
 なお、小太刀等の形は山東派の青木先生が創作されたものです。
現在行われている山東派の体系は青木規久男先生が剣理を追求し、一刀・五法の形から作り上げたものといえます。

34 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/07 22:17 ID:KzVpb3PZ
>>30
宮田さんは山東派で、青木先生の弟子である宮川伊三郎先生の流れです。


35 :名無しさん@お腹いっぱい。 :04/02/07 22:28 ID:RvDZcZKH
五法すら実は武蔵自身は形を定めてないって説もあるし。
それぞれの位と基本的な動作を五輪書に書いただけでね。

36 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/08 10:31 ID:bsSlt7Le
山東派等は青木規矩男師範はそもそも宗家とは名乗っていなかったが、
青木師範から二天一流を継承しよう!と働きかける側が、青木師範を「宗家」
という事にしてそいでそれから「宗家」という事を言う様になったんじゃないか。
江戸時代には「宗家」という言葉もなかったし、そういった概念は、
「あの先生が何々流では一番の先生だ!」と皆が思う事意外には特に
無かったんではないかと思う。
あえて辛口に言わせてもらえば、
今、山東派の中で「宗家」を名乗る者が出ているとしても、実際には
派全体なり流儀全体なりを統括しているわけでもなさそうだし、だいたい宗家を名乗る
人達が昔出したビデオとかからも、古武道大会で見る技は年々技を変えていっていて、
これが「もともとの技だ!」みたいな主張の根拠すらもあやふやなんだと思うが。

37 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/08 10:41 ID:ZmADpoee
二天一流ってかなり実践的な剣術だそうですね。
確かに2刀と一刀では2刀の方が有利そうですが、二刀は扱い方が
難しいそうです。
近藤勇の剣術ってどんな剣術ですか?

38 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/08 10:44 ID:bsSlt7Le
>>36の続き
江戸時代にはいくつも二天一流の師範家があったし、どれが「宗家」格だ
みたいな争いもなく皆仲良く(?)併存していたみたいだし、
あれ程多く残っていたものでさえやっと2つの系統しか今に残らない
ものだったから、れっきとしたものなら複数のものが並び立ち、
互いの継承内容等の良い所を出しながら伝え活動していく事は、
之迄の書き込みを見た感じでの二天一流という流儀のこれまでの
継承のあり方とかを見れば、良い姿なのかしらん。
市販のビデオとかを見て真似しているのかしらないけど、おかしな
所まで真似しているのがバレバレな新興団体が多いのも、山東派には
偽山東派の存在自体も多いのもいえるが。


39 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/08 10:46 ID:bsSlt7Le
>>37 ここは天然理心流の掲示板じゃないんで。。。
   近藤勇のファンだってのは判りますがね。

40 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/08 14:28 ID:t9OI4Id7
二店は相当な筋力がないと使えません

41 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/08 16:52 ID:CRo+elH0
二天一流の中には空手のサイ術を取り入れてる系統もあると読みましたが、開いた口がふさがりませんでした。
それと贋山東派と言うものまであるのですか?

42 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/08 17:07 ID:pIya6Mm5
>>41
合口のことをいってるのかな。
そのことを書いていたサイトは、最近、それら他道場に関する記事を消してますね。
クレームがきたのかな?

43 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/09 00:57 ID:UGaEIwnC
二天一流は形としてははじめは五法だけだったのなら
後世になっていろんな系で色んな形や稽古方法等も
付加して伝えているという部分が多いのかしら。
結構、やる人によっても内容が違ってくる?

44 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/09 15:26 ID:dbJgphFQ
>> 7
6蔵よりいまひとり相伝の寺尾勝信のその後の系統ってその後どうなったの?

45 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/09 17:35 ID:xVWtiWUE
>>43
 武蔵が残した形は五法とよばれる二刀の形五本のみだと考えられます。
 江戸時代に志方・村上・野田系の一刀の形と山東派の一刀の形がそれぞれ作られました。
 さらに、昭和になって山東派では、青木規矩男先生が、五法・一刀を含めて、剣理に基づき改良し、他の形も作って体系化しました。
 従って、青木先生の改良の段階によって、学んだ時期が異なる兄弟弟子の先生方の形や教授体系が異なっています。
 野田派でも、代を重ねるにつれて、形がそれぞれの先生で、異なってきています。剣道連盟の伝達講習のように、流儀内で定期的に統一をはからなければ、そうなるのは仕方がないでしょう。

46 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/09 17:41 ID:xVWtiWUE
>>44
 五輪書を与えられた寺尾孫之丞勝信には弟子はいたのですが、熊本では、弟の求馬助信行が武蔵の後継者とみなされ、孫之丞の系統が伝わることはありませんでした。
孫之丞が藩士ではなかったことも関係しているのかもしれません。
孫之丞の孫弟子たちも信行の系統の弟子になっています。
 孫之丞の弟子の一人、柴任三左衛門美矩は細川藩を辞めたのち、福岡黒田藩に流儀を伝えました。
この流れは明治まで続き、文献、資料も多く残っています。
その系の丹治峯均が、柴任とその弟子吉田実連の話をまとめたのが最近有名になり良く取り上げられる「兵法大祖武州玄信公伝来(丹治峯均筆記)」です。


47 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/09 18:13 ID:0mdIlz6Q
>>46 寺尾孫之丞勝信が熊本では熊本での後継者に恵まれなかったという
   事なのでしょうか。
   武蔵から相伝したのは五輪書であり、もともとは細川藩主用に書かれた
   兵法三十五ヶ条を「おまえにも」渡された求馬助より勝信への武蔵の
   信頼が、ある意味では深かったのかもしれませんね。
   熊本に定着しなかった点についてどんないきさつがあったか、謎多いですよね。
   最近、お墓も発見されたとの事を市販の本で読みましたが、長い事
   顧みる人も無く、残念ながらそれまで荒れ果てて倒壊もしていた
   らしく、発見後に地域の人達の有志で整備され観光化もされたらしい。

48 :カマツカジン子:04/02/09 18:28 ID:fGOaCfIq
武蔵が関ヶ原へ行ったのは最低でも28歳以降。

49 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 03:04 ID:DlvvYsED
二天一流は本来、何らかの一刀の流儀を習得した者に、武蔵が兵法としての教えと、若干の
二刀術を教えたと言う事なのだろうか?

そうでないと流儀としては余りに初期の段階では不完全すぎるような気がする。

50 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 03:07 ID:YRF6YlDD
>>47
 寺尾孫之丞の墓は宇土市にあり、今は綺麗に整備されています。墓石の裏に太閤秀吉の辞世
 つゆとをきつゆときえにしわがみかななにわのことは夢のまたゆめ
とあり、彼のなぞの多い一生について思いを抱いてしまいます。
 孫之丞の弟子では浦上十兵衛が相伝を受けており、彼の子孫には五輪書の写しが伝えられていました。
 弟の求馬助は、藩主細川光尚の命により、死の間際の武蔵の看病をしていたことが、米田監物と宮本伊織の書状から知られています。


51 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 03:10 ID:YRF6YlDD
>>48
 武蔵の父と推測した人物の死亡した年までに武蔵を生誕させるためにそのような説を述べる人はいますね。
通説のように天正十年か天正十二年にしたほうが正しいと思います。
 また、武蔵は関ヶ原の合戦には参加しなかったという説もあります。
講談じみてあまり信用できませんが、「兵法大祖武州玄信公伝来(丹治峯均筆記)」には関ヶ原の戦いのときは黒田如水に従い、九州での戦いに参加した話が載っています。
武蔵の父とされる新免無二が関ヶ原以前に黒田家に仕官していた資料が残っているので、根拠のない荒唐無稽の話でもないでしょう。


52 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 12:39 ID:YRF6YlDD
>>49
 他流のように段階を踏んで高度な形を教えていくような体系ではなかったようです。
武蔵の父とされる宮本無二助一真の當理流や若き武蔵の円明流には、他流とおなじくらいの形があったらしいのですが、最晩年に、たった五本の形だけを残して他を捨てたと思われます。
 残念ながら初期の教授体系は良くわかりません。
 新免弁助信森が武蔵が他流の良い形を集めたと伝えられる一刀の形を入門者用に指導したのが、志方・村上・野田派に伝わる一刀の形の始めです。
信森は同時にしないでの打ち合い稽古を始め、五方の形と共にしない稽古によって五輪書の教えを学ぶという教授内容になったようです。
 山東派では、他派より遅れてしない稽古に合わせるかたちで一刀の形が作られたと推測されます。
 明治になり現代剣道が作られていく過程で、流派内のしない稽古の教授内容は失われ形だけが独立して伝えられたため、他流にくらべ不完全な内容に見えるのかもしれません。

53 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 12:53 ID:IgGAjRXS
江戸時代に二天一流の各派の多くがしないを使った稽古をしたのは確かな
ようで、雑誌で見た事があるけど防具の面金などで二天一流で使われたもの
(時代はいつのか判らないけど)があったのを覚えている(記憶だが)。
江戸時代には、今の剣道のような勝手なあてっこでない、流派の刀法からみて
かなったやり方の確認延長上での乱取りを加えた様な稽古をしたので、
明治以降になり、しない稽古を専らとし竹刀第一の剣道が台頭して、
古流の刀法から逸脱したものになってくると、
「こりゃー、やってられんワ」
と、しないでの稽古をやめて形稽古だけを伝える事になったのでしょう。
ちなみに山東派の山東清武先生も若い頃に江戸の千葉道場にこられています。
これは、二天一流を伝える先生でも、しない剣道はある程度稽古されて
いたのでこうした出稽古も可能だった事をものがたるものだと思いますが。


54 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 16:44 ID:YRF6YlDD
>>54
 山東派の山東新十郎清武先生は嘉永3年に、宮崎八郎ら宮崎兄弟の父である宮崎長蔵と関東方面に剣術修行に出かけています。
彼らは、北辰一刀流の千葉道場や神道無念流の斉藤道場を訪ねており、桜田門外の変の首謀者関鉄之助と立ち会ったことなど、長蔵が書き残しております。
長蔵はそれ以前にも九州内の剣術・柔術道場を、柔術をやっていた弟と巡歴しております。
また、郷士の門人たちが地方で他流と試合を盛んにやっていることなどから、素直に考えられることは、江戸末期の山東派は、しない稽古が中心になっていたと考えるのが自然だと思います。
逆にしない稽古が巧みだったことが、江戸末の山東派隆盛の一因だと考えられます。
 山東派がしない稽古を捨てたのは、青木先生の代になってからです。
しない稽古を捨てたことで、教授内容が少なくなったことを補うため新しく形を加え体系化したのではないでしょうか。

55 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 17:12 ID:JhjZcq3f
青木先生は戦前の精励証(こんな字だっけ?:今でいう剣連の練士位?)を
戦前にもっていたそうなので、剣道をやらないわけではなかったのでは
なっかったと思われますが、戦後の剣道連盟の組織には活動されなかったと
言われてますね。
古流としてのしないのけいこに比べると純然たる竹刀剣道の方が剣道における
ルールの制約から生じるアドバンテージはあり、竹刀剣道の隆盛と共に、
二天一流の中に竹刀剣道をする人はあっても、やがてそれは古流の稽古とわ
区別する割り切りをしていったのではないでしょうか。

54の指摘の通りしないを良く取り入れて稽古したのは幕末の二天一流の
特色かもしれませんが、明治になっていくつかの派が消滅した理由として、
1)しない剣道の隆盛の時代の流れにとりのこされた かもしくは、
2)余りにもしない剣道化して流儀としてのオリジナリティーを失った
との正反対の理由のいずれかについても、考えうると思いますが、
さて、どうなんでしょうか。


56 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 17:21 ID:JhjZcq3f
>> 55 続き
 江戸時代の流儀には伝える本数が少ないものは珍しくないと思います。
 一刀流や新陰流などのようにものすごい数の形を伝えるのはありました
 けど。
 江戸時代には剣術だけでなく居合、柔術、馬術etc..も並行して
やっていたから、色んな事やっていたわけで、今の現代人が
 せいぜい1流儀しかやらなくて、かつ、その1流儀からあらゆる武道の
 要素を学ぼうとするのとは、ちょっと違ったと思います。
 つまり、1つの流儀事に本質を伝える形などの数は少なくても
 差し支えがなかった理由にこうしたこともあったかもしれんれす。
 

57 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 17:31 ID:JhjZcq3f
>>55 もうひとつ続き
  明治になって「肥後の武道は腹を練るのにはよいが竹刀剣道に
  おくれや不覚をとるのを改善しなくては云々...?」とかいって、
  警察関係のつて(?)か何かで剣道の最新の道具をまとめて
  購入云々、、、といった記事もどこかでみました。
  (すみません、パクリのもとは忘れました)
  察するに何がしかの竹刀剣道らしき事はあったみたいだが、
  腹を練る事が中心のしない剣道の技としてはあまり精緻な
  ものしかなかったという可能性もあります。
  山東派の山東清武先生は江戸時代だけでなく、明治の熊本武徳会の
  重鎮になられた、熊本武道界の大恩人でもある人ですが、
  若い頃の江戸等の武者修行もきっと生かされたのでしょうね。

58 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/10 18:18 ID:JhjZcq3f
>> 55 あ、それからもういっちょう!
  明治に京都武徳殿で山東清武先生がまねかれたとの事で、よく写真でも
  マイナーな、何かの芸事の雑誌に紹介されたのを見た事がありました。
  これは、しない剣道の模範試合か何かをしにいったのではなく、
  弟子と二天一流の演武をした訳なので、流儀として演武を披露する
  体裁はもとより流儀にあったという事で、それが流儀として大切な
  事だとの認識もあったという事には違いないですよね。

59 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/11 00:13 ID:fHlpJGMq
宮崎八郎ら宮崎兄弟の父である宮崎長蔵は九州一円や関東でも
剣道をやっただろうが、山東清武その人自身はどの位、やったのかしら。
実際に立会やしない稽古は宮崎長蔵が代行した可能性もあるかもしれない。
というのも、一応師範家の後継者にもなり、武者修行としていくわけで、
まかりまちがえてお名にキズがつくような事があってはならない。
それで、しない剣道において腕に覚えの宮崎長蔵をおともとして
つれていくわけです。
ちょっと、小説じみた推測ですが。

60 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/11 11:00 ID:eilYvwF0
>>59
まあ、それなりの腕はあったでしょうね。

61 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/11 11:52 ID:eilYvwF0
>>59
 大変面白い推測ですが、師範としての腕はあったと思います。
 山東新十郎清武先生は二天一流だけでなく、楊心流柔術の師範でもあり、明治初期の熊本の剣術柔術界の重鎮の一人として、維新後衰退していく武術界を支えるべく努力されています。
 また、熊本の保守派が組織した熊本隊の幹部として西南戦争に参加しています。


62 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/12 14:02 ID:/UmNVhi9
 今日の山東派では、武蔵の兵法の本質は一刀にあると主張し、一刀勢法こそ第一の如く指導されていますが、少なくとも江戸期までは、あくまで五方こそ武蔵兵法の本質であったはずです。
当時の二天一流は、派によっては、入門者用に一刀の形を基本として教えたことはありましたが、五法の形を第一とし、武蔵の教えをしないの打ち合い稽古で学ぶ形式だったと思われます。
 なお、山東派で今日よく用いられている勢法なる言葉ですが比較的新しい言葉で昔からあるものではありません。

63 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/13 00:47 ID:CSVaBxcS
なんだか、派とか江戸とか明治時代とか武蔵自身から時代が下った
話ばかりなんだけど、武蔵の古い圓明流の話とかもしませう。
圓明流はどこかでおしえてる人って今でもいるのかな。

64 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/13 17:45 ID:Cfs+qSKK
 現在、円明流を称している道場もいくつかあるようですが、武蔵からの流れが史的にたどれるかは疑問です。
中には明らかにおかしな道場も存在します。資料が少ないと思います。
 明治期まで伝わっていた系統はありますから、それらの流れを継ぐ道場があればうれしいと思います。
 たとえ、正しい系統であっても、伝わる過程で、晩年の武蔵の著作を伝書として取り入れたり、内容を変化させているはずです。
 仮に伝系が正しいとしても、比較的歴史をたどれる熊本の二天一流さえ大きく内容を変えている系統もあるので、どれほど、武蔵の兵法を受け継いでいるかは不明としかいいようがありません。

65 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/14 01:57 ID:0SKs2DSr
13>>青木規久男先生は、二天一流だけでなく関口流抜刀術など
多くの武芸を極められた方で、五方の形についても日夜研究、
五輪書を参考にしながら自ら工夫し剣理にあった形に改変された。

本当は「改変した」のではなく、次の通りだったのかもしれないと思うのれす。
青木師範は晩年、五輪書に合うような五法の内容を工夫研究されたのは、
事実の様です。その技は大分の方の門人と共に行っている。
青木師範が大分に二天一流を伝えて下さったのはつまり、二刀について
改変した内容を伝えようとしたのではなく、本当は古来の五法+改変の五法
といった大きな体系で伝え、更なる工夫も委ねたのだと思う。
大分の弟子には台湾時代より古来の五法もしっかり伝える弟子もいた。
改更の五法は新しい弟子とも工夫した。結局武道は人に伝わるものれす。
ただ、大分の弟子達以外のところには古来の五法のみを伝え改変作業には
加わらなかった。
やがて、青木師範が亡きあと、大分の弟子がその作業を引き継いだ。
しかし、大分で古来の五法の内容も知る柱となる後継者がすぐに亡くなり、
代かわりが進み、古来の五法の存在は知りつつも内容を知らないでいる
新しい代の人は改変の五法に独自の解釈、路線を加えが、
古来の五法の伝統は途絶えてしまい、もっぱら改変のものが残った。
ゆえに、青木師範としては、五法を改変したつもりでなく、新しいものを
追加した大きな体系に発展させるつもりのものが、後々、頓挫したのであろう。
それで、付加でなく「変えた」みたいになったのでありましょう。
こうしたいきさつから、古来の五法(古伝派とでもいおうか)の側から
改変(新派とでもいおうか)は本来の二天一流を伝えていないから、あれは
本当の意味で二天一流といえるものなのだろうかと指摘をするのであろうし
新派は新派で「我々の代で加えた工夫がある方がすぐれている」
みたいな自負のもとに正統をなのっているのではないかと思われる節があるのれす。
だから、大分に伝わった後をうけたいろいろな師範の内容は似ているが、
それ以前に青木師範より教えを受けたグループのものとは、同じ山東派の
中でも2分する程の違いがあるといたるところで指摘される事になると思う。

66 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/14 22:39 ID:xn93JvHU
>>65
 青木規矩男先生は、生前、大分の先生に二天一流を譲られました。
そして、大分の先生方は山東派の形を記録するために、形を本にまとめられています。
この内容はすべて青木先生のチェックが入っており、以前に青木先生が教えられた内容とは異なったものです。
青木先生はそれら改定したり新たに作った形と共に二天一流を大分の先生方に譲られました。
青木先生の生前に大分の先生方が建てられた碑には、正統二天一流の相伝名と共に青木先生を中興之祖と刻んでいます。
 そして、他の先生方は、青木先生に学ばれたその時々の形をそれぞれ教授されております。
 青木先生は関口流でも新しく作られた形を一部の先生に伝えられており、生きた武道として絶えず剣理を追求されていたのでしょう。
 したがって、山東派の形が本来どのようなものであるかは正直なところ現在では不明としかいいようがありません。

67 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 00:29 ID:7xBYxdyq
>>66 「正直な所現在では不明」という者に知ったふりして語る資格なし。

    もっと勉強しなさいっ!

68 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 01:15 ID:dVOkLThv
>>67
 具体的に反論できないものに、とやかく言う資格はない。

69 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 06:32 ID:4oiO+M15
>>67、68
 みなしゃん。
 特定の派をめぐって、しろうとさんもくろうとさんも、
 あまり感情的になりなさんな。
 派がどうのこうのの議論は、宮本武蔵からみると、何も関係ありましぇん。

 「皆、オレの事をわすれないで」(宮本武蔵)

70 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 14:12 ID:Bt4th5u/
っていうか野田派は偽者だな。
あれは剣術の偽者だ。型遊びとでもしておこう。

71 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 14:52 ID:dVOkLThv
 青木規矩男先生は、あれだけ大きな影響を現代まで残しているのだから、偉大な武道家であることは間違いないでしょう。
ある山東派の師範が述べています。
「現代では、誰が宗家だ、家元だ、ではなくて、空手や合気道みたいに末広がりに発展することを望んでいる。」
歴史や真実を追究することはもちろん大事なことですが、各個人がそれぞれ二天一流を学ぶことで剣理を考え、気を練り、自分を高めていくことこそ大切でしょう。

72 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 15:16 ID:dVOkLThv
>>70
 是非、野田派が偽者という理由を具体的に教えてください。

73 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 20:07 ID:Bt4th5u/
野田派の剣術は全然だめですよ。
何度も見たことは有りますが完璧な形だけでのもので
武道の基本である気合、腰、足、位、刀法どれを取っても
武道とはかけ離れています。
野田派の道統がどうのこうのという前に
技が全くの素人では話にならないです。
他にもそういった類の武道はありますがひどい流儀の中の一つですね。
まともな武道家ならあれは絶対にやらないでしょう。

74 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 20:37 ID:1MLH8xsC
話の腰を折って申し訳ないんだけど、剣術諸流派は4大流派から派生した物
が多いんですよね?天神正伝神道流から自顕流や天然理心流が派生したとか
中条流から一刀流とか。二天一流は独立系なんですかね?手の内のこと
(左手の小指で握るとか)って世間一般の常識になってたんでしょうか? 
それとも基になった流派とかあったのでしょうか?


75 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 21:15 ID:Bt4th5u/
武蔵自体子供の頃は当理流という十手を無二から習ってたって
いう話だけどね。今井宗家の二天一流には十手が残ってるから
本当かもしれない。当理流はもとは京八流の流れを汲んでいるって
聞いたことがあるよ。
手の内は大体何処の流儀でも特殊な考え方を推し進めている
流儀でなければおおまか昔から同じような感じだったのではないかな?
伝書類には今のところ手の内をどうのってみた事無いんだけどね。
多分手の内なんて基本的ナ持ち方とかはそれこそ昔から常識で
知らないほうがおかしかった可能性が大きい。

76 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 21:55 ID:c9lIh2oq
最近亡くなられた高橋華王師の武術や埼玉の刀剣商をされている方の武蔵の流れはどうなんでしょうか?
二天一流と断言出来ないもので。
それと長野の荒関師範と言う方の二天一流?も。

77 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 22:29 ID:dVOkLThv
>>73
 それは、縁がなかったんでしょうね。
野田派や山東派の演武は私も何度も見ましたよ。
野田派にしても山東派にしても確かにひどい演武もあります。
特にゆっくり演武する野田派は、速さで誤魔化すことのできる山東派に比べて話にならない内容です。
私も始めて見たとき、何でこれが武蔵の兵法なのかと感じました。
でもある師範が野田派の形を演武されている姿を見たとき、ああ、これが本当に近い形だと感じました。
この師範も最初、この形が何故武蔵の兵法なのか疑問に思ったそうです。
簡単そうに見えるものこそ理解するのは難しいと思います。
剣道形でも話にならない内容の人もいれば素晴らしい演武をされる方もいますから。
まあ、日本剣道形はくだらない、価値がないとおっしゃるならどうしようもありませんが。

>>75
 十手の形こそ、青木先生が新たに作られた形の一つですよ。
江戸時代の山東派には影も形もなかった。
 手の内については、五輪書水の巻や兵法三十五箇条と呼ばれる書物に書いてあります。
常識だったのか、何かの影響を受けたのか、おのずと理解したのかは武蔵に直接聞いてみないとわからないですね。


78 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/15 23:21 ID:Bt4th5u/
じゃー私のみた野田派はいい加減なものだったんですね。
私は日本古武道大会でしか見たこと無いけど
あれはひどかったからね。
あれがいいという人は野田派宗家のいう幽玄騙された人ですね。

79 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/16 00:06 ID:h+H41SYQ
>>78
まあ、誰がどうということはひかえます。
ひどい人は話にならないくらいひどいことは否定しません。

80 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/16 01:59 ID:h+H41SYQ
>>76
 先日なくなられた高橋華王氏は武蔵研究家と知られる谷口覓先生から円明流判官派を受け継がれた方です。
これは、兵庫の方で伝えられていたとのことです。
谷口先生は分厚く高価な武蔵研究の本を書かれており、この流儀についても説明がしてあります。
私は谷口先生の本と、映像で高橋先生の演武を見たぐらいで、実際のところどのようなものか分かりません。
熊本系の二天一流とは関係ないと思います。
 荒関富三郎氏は、最初、寺尾孫之丞の黒田藩に伝えた系統の流れをくむという越後に伝わっていた神免二刀流を学ばれたそうです。
これは形はなく、しないでの稽古法だけが伝えられていました。
荒関氏はその後、熊本に伝わる野田派を学ばれたあと、剣道での二刀の追求を行い、独自の形を作られ二刀による竹刀剣道の指導にあたられました。
荒関氏の創造したまったく新しい二刀を用いる流儀は武蔵会と呼ばれています。
 両流派とも詳しい方がいらっしゃったら教えて下さい。

81 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/16 02:50 ID:UAyqwUwb
>>80
高橋華王氏に関しましては、武神と言う雑誌にご本人や門下の方々が登場されておりますが、内容は
不明でありますが、装束や用いている武器があまりに異形であるように思われます。

82 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/17 15:36 ID:/5DzGicx
武蔵は「自ら一流一派を起こせるぐらいの器がなければ、二天一流を継ぐことは
できない」みたいなことを言ってるわけなんだから、どの派が正統とかの議論は
あまり意味がない様に思うんですが。どれが一番武蔵に近いか、っていう議論な
ら別ですが。

83 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/17 16:45 ID:vIzaGfiG
>>82
>武蔵は「自ら一流一派を起こせるぐらいの器がなければ、二天一流を継ぐことは
できない」みたいなことを言ってる

ぜひ、出典を教えてください。


84 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/18 15:05 ID:xZZENUp5
 山東派の青木規矩男先生の言葉に
「流儀を受け継ぐということは、ただコップの水を別のコップに移し変えるだけではなく、その時代の人々を納得させれる中身がなければならない」
というものがあるそうです。
先生の考えが良くわかると思います。

85 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/18 16:00 ID:xZZENUp5
 山東派二天一流では、目録類は出していなかったとの証言も青木先生はしています。
山東派では本来目録の類はなかったのでしょう。

86 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/18 20:25 ID:xwmS5cg0
>>84
>「流儀を受け継ぐということは、ただコップの水を別のコップに移し変えるだけではなく、その時代の人々を納得させれる中身がなければならない」
>というものがあるそうです。先生の考えが良くわかると思います。

良く取れば流儀を改正する事になり、悪く取れば個人の我で流儀を変質させたとも言えますね。
果たしてどちらだったのでしょうか。青木師範の場合は。


87 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/18 20:56 ID:yim+LPUS
86の人はラヂオ体操でもやってんの?

88 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/19 03:43 ID:Q/P+Zk/0
>>87
それはどう言う意味ですか?

89 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/19 17:16 ID:Ij2KKdGo


90 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/19 18:18 ID:G1a30dWW
 現在、山東派の演武を見て、これが武蔵の兵法と信じてしまう人が多いことから、青木先生がやったことは成功かもしれない。
でも、裏を返せばもともとの内容は時代にあわない内容なのだろうか。

91 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/19 18:30 ID:Z0Yk0ZkX
時代に合わせて内容を変えて行くと言うと聞こえはいいが、ようは開祖の武蔵や歴代の伝承者達が伝えて来た内容を全く別のものに
改変してしまったと言う事なのでは?
そうではなくて元々の二天一流に自己の工夫を加えて伝えて行くと言う道もあったのではないだろうか。


92 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/20 01:56 ID:RbKAXJLw
>>83
お前は、五輪書もろくに読んでないのにこのスレにいるのかYO!

出なおs(ry

93 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/20 14:19 ID:kNRkqJ1N
>>92
 五輪書のどこにこのような記述があるのでしょうか?
 何度読んでも見出せません。ぜひ載っている巻の名でも教えてもらえないでしょうか?

94 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/20 14:40 ID:nvNMlJFs
ふーん。二天一流がまったくの無からの創造だとか、
いや史実はそうではないだとかいう論争があるのは、
「伝承する時には自分が発見した道筋を再発見する意気込みで
練習しなさい」という程度の内容を誤読した人が根無し草
説を唱えたということなんだね。誤読って恐いね。

95 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/20 18:14 ID:kNRkqJ1N
>>94
 そういえば、ある二天一流の師範が、五輪書を読む場合はとにかく原文を直接読むのがいいとおっしゃっていました。
やはり、誤訳とかは多いでしょうね。
中にはどう考えてもおかしな訳文を平気で本にしている方もいらっしゃいます。
それが、安易に世間に広まったりするから大変ですね。

96 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/21 20:05 ID:wjITlaSS
宮本武蔵の生涯についても、誤った内容を平気で本にしている人もいますからね。
自分で調べた上で、述べるならともかく、他の本に書いてあることをそのまま鵜呑みにして著作にする人もいます。
何でも本に書いてあるからといって、安易に信じることは戒めなければなりませんね。

97 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/21 21:41 ID:QwxeVvzy
人間は暇と金を持て余している人ばかりではありません。
一次資料や史跡を詳細に時間を掛けて調べることが出来る人ばかりではないと思いますが。

98 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/21 22:28 ID:wjITlaSS
それはそうですが、歴史研究家と称して、去年にかけて宮本武蔵に関する本を何冊も出版した人がいましたが、彼らはきちんと調べる義務があったと思います。
けれども、既刊の本から安易に引用して、誤った話を広めていったのは残念なことです。

99 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/21 23:39 ID:76a7+WKu
>>95
現在『五輪書』を訳されている方々の中にどなたも武道家はいらっしゃいません。
従って誤訳というか捉え方が全く違います。
今二天一流の先生が『五輪書』の訳をされており出版される予定ですが、
それまでは原文で読まれるのが一番かと思います。

100 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/21 23:53 ID:wjITlaSS
>>99
今までも、合気道の有段者や杖道・古武術の師範が訳した本が出版されてますよ。
二天一流の師範も確か、何名か私家版も含め訳していらっしゃる筈です。
内容は、師範でありながらとんでもないものもありましたが・・・。
また、宗教書と解して訳された師範もいると思います。
まあ、新しい訳が出版されることは楽しみなことです。

101 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 10:42 ID:WYg0ETsg
>>100
>今でも、合気道の有段者や杖道・古武術の師範が訳した本が出版されてますよ。

その人たちは似非武道家でせう。
本当の武道家なら他流の人間が書いた本を訳して出版するようなことは恥ずかしくて
出来ないでせう。
『五輪書』は二天一流を極めた師範しか訳せないでせう。

102 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 10:49 ID:cwRazvX4
>>101
翻訳界の常識を覆すだけの内容を、二天一流だけからよく引き出せるな(ボケ

103 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 11:23 ID:WYg0ETsg
>>102
翻訳界の常識など武道には関係無いでせう!

104 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 11:25 ID:cwRazvX4
>>103
馬鹿か。武道はどっちかというとあらゆるものと関係してるものだ。
お前のおかあちゃんが台所でどう皿をならべてるかは他には関係ない。
かあちゃんの手伝いでもしてろ。

105 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 17:37 ID:WYg0ETsg
>>104
武道の何たるかも知らないくせに何を言っているのでせう。

106 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 17:52 ID:7UHF8HK3
>武道の何たるか
教えてくだちぃ

107 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/22 21:53 ID:OUfGtBY5
五輪書は、江戸時代から二天一流だけでなく、他流の者にも広く読まれていた。
近年も武道家・格闘家の第一人者が五輪書を愛読していた例も多い。
一流を極めることも大事だが、諸芸にさわること、諸職の道を知ることで、自分を高めていくのが武道家ではないだろうか。


108 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/26 00:28 ID:Xnt2/w5P
そういえば、今井先生が、小倉の岩見氏と宇佐の清長氏の二人に十一代目宗家を継がせたそうですね。


109 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/28 12:16 ID:f6TYquMp
11代目継承を名乗ることを2名に許したというのならわかるけど、
本当に11代目宗家を2名つくったの?それガセネタ?

110 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/28 22:49 ID:W7pVUkLe
>>109
西日本新聞や地元のNHKテレビでも放送していた。

西日本新聞 2003/12/04
武蔵「二天一流」小倉の消防士継ぐ 小倉北署・岩見さん 20日、11代目相伝式

 剣豪・宮本武蔵が創始した剣術「兵法二天一流」の第十一代を、北九州市小倉南区横代の小倉北消防署員岩見利男さん(55)が継承することが決まった。
小倉城内(同市小倉北区)に建てる武蔵顕彰碑の除幕式に合わせ二十日、大分県宇佐市在住の十代目から岩見さんへの相伝式がある。
岩見さんが十一代を継承することで、武蔵が長く暮らした小倉へ、約三百六十年ぶりに武蔵の剣術が“里帰り”する。
二天一流は、磨き抜いた剣の技術に加え、相手の心の動きを読みとって優位に立つ兵法。
武蔵が晩年、熊本で記した「五輪書」に、その教えが記されている。
二刀にこだわることなく、片手でも一刀を持てるように腕を鍛えていれば、どんな武器でも実戦に役立つとしている。
 武蔵から数えて八代目までは熊本県内で継承されたが、九代目から大分県宇佐市に移り、十代目今井正之さん(87)も同市に住んでいる。十一代は二人が継承。
岩見さんのほか宇佐市の清長文哉さん(59)が選ばれた。
 岩見さんが二天一流の門をくぐったのは一九八三年。
武蔵の養子伊織の子孫にあたる宮本信男さん(北九州市門司区)と出会い、紹介された今井さんに弟子入りした。
 岩見さんは週一回、今井さんの道場で修行。
二〇〇〇年には自宅に道場を開き、約十五人の門下生を指導している。
米国や欧州でも演武経験があり、道場にはフィンランドやフランスなどからも修行に訪れているという。
こうした熱心な指導や誠実な人柄、優れた技術が評価され、十一代目継承が決まった。
 相伝式は継承者の居住地に武蔵顕彰碑を建て、その碑前で行うことが慣例。
このため、地元郷土史家が中心になり、市から小倉城の一角に碑建立の許可を取り付けた。
 岩見さんは
「古武道は礼に始まり礼に終わる。相伝式が終わるまでコメントできないが、責任の重大さは感じている。武蔵先生の遺志を次代に伝えていきたい」
と気を引き締めている。

111 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/29 12:01 ID:bKxcvwDr
>>111
伝承されている武蔵のものとされる木刀と鉄扇は、どうなるのだろう?

112 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/02/29 21:10 ID:bKxcvwDr
二本あった木刀を九代目の二人にそれぞれ伝えたから、木刀と鉄扇をそれぞれに与えたのかな?

113 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/02 11:26 ID:Gjebx+zc
もう一本の木刀は、今どなたがお持ちなのだろうか?

114 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/02 17:59 ID:ptAp1Jos
武蔵は実践で木刀ばかり使っていたのか?

115 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/02 22:28 ID:gPmGjJaz
上のレスでは、武蔵が関が原に赴いたのは少なくとも28歳以降と書かれてましたが、
ほんとですか?

116 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/03 00:46 ID:1J7NzxqM
>>114
武蔵の死後9年目に武蔵の養子伊織が小倉の手向山に建てた碑文には、吉岡清十郎・吉岡伝七郎、船島での岩流との戦いでは木刀を用いたことが明記されています。
吉岡又七郎との戦いについては、豊田正剛の「武公伝」に刀を用いたことが記述されています。
またそのときのものと伝えられる吉岡切りの刀が熊本市の島田美術館に展示してあります。

>>115
 武蔵の作州宮本村生誕説で武蔵の父とされる平田武仁が亡くなったのが、天正8年(1580)。播州米田村生誕説で武蔵の父とされる田原家貞が亡くなったのが、天正5年(1577)で母とされる女性が亡くなったのが天正元年(1573)となっています。
武蔵の生まれたとされる天正10年(1582)または天正12年(1584)では、どちらの説も父や母であることが不可能になります。
そこで自説の正当性を強く主張するために、根拠もなく武蔵の生年を遡らせることが考えられました。
特に近年、播州米田村生誕説を主張する方々が、母とされる家貞妻が亡くなった天正元年以前に武蔵が生まれたとの主張を著作などで強く主張しています。
これによると、関ヶ原の時武蔵は28歳以上ということになります。


117 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/03 03:17 ID:9M7JxLIv
>>116 なるほど。虚実入り混じる人物なんですね。剣豪には多いらしいが。
   例の「場がボンド」から興味を持った人たちは、鵜呑みにしているでしょうね。
   実は俺もそのひとりなんですが、実像を知りたくて質問した次第です。
 
   しかしそれほど年齢や史実がかけ離れていると、
   物語としての整合性がなくなってきて混乱してしまいますなあ。
   とにかく、いろいろ教えてくれてありがとうございます。

118 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/03 16:33 ID:1J7NzxqM
>>118
「場がボンド」いいですね。私も大好きです。史実云々でなくストーリーがいいです。
武蔵が関ヶ原の時に28歳以上という説は、ごく一部の人が主張しているだけで、大多数の研究者は、武蔵は天正10年(1582)または天正12年(1584)の生まれと考えています。
ただ、この28歳以上という主張が手ごろな値段で買える本として出版されたため多くの人の目に触れているだけです。
天正10年(1582)または天正12年(1584)の生まれなら、関ヶ原の時に武蔵は17歳か19歳となります。
問題は、武蔵が関ヶ原で西軍として戦ったかというと、こちらのほうが疑問が多いと思います。
武蔵の父とされる新免無二が関ヶ原以前に黒田家に仕えていたことが、宇喜田家や黒田家の資料から明白なことから、黒田如水の軍勢として九州で東軍として戦ったか、黒田長政の軍勢として関ヶ原で東軍として戦ったとする方が可能性があると思われます。


119 :117:04/03/03 21:10 ID:tJiYgVDB
>>118 これまた面白いことを教えてくれてどうもです。
   質問ですが、武蔵と父親の関係は漫画にあった通り、険悪だったんですか?

120 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/04 00:55 ID:r3/tlqnB
>>119
 武蔵晩年の弟子の一人寺尾孫之丞の弟子で福岡黒田藩に二天一流を伝えた柴任美矩とその弟子吉田実連の話を立花峰均がまとめたとされる武蔵の伝記「兵法大祖武州玄信公伝来」(1727)に武蔵の幼年時代や十三歳の最初の決闘について詳しく書かれています。
そこに、子供ながら父の兵法を馬鹿にしていた武蔵をこころよく思っていなかった父無二が細工をしていた小刀を九歳の武蔵に手裏剣として投げつけ、それを武蔵がよけたという話があります。
無二はそのことで、ますます怒り武蔵を家から追い出したので、母方の叔父のもとに預けられたそうです。
ストーリーとしては面白いので、吉川英治の小説などで採用されていますが、「兵法大祖武州玄信公伝来」はこのような講談的な話が多く、最近の本で述べられているほど内容に信頼性がありません。
したがって、たぶん史実というより伝説でしょう。
でも、話としてはおもしろいですね。


121 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/04 00:59 ID:WvODbRnc
>>120 面白いです。重ね重ねありがとう。

122 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/06 23:04 ID:BRWStNNR
歴史は真実を追究すべきものだが、今生きるものが都合のよいように歪めていきそれが、真実に変わる。
二天一流も同様である。
悪貨が良貨を駆逐する。だが、そのほうが良いのか。
泉下の武蔵は何を思う。

123 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/07 12:40 ID:ZQalRnUs
↑なんか、上手く〆ちゃったようなレスですね。

124 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/08 15:22 ID:pIya6Mm5
そう信じているかもしれないが、自分たちが正統だの、あちらが偽者など公言し、
何も知らない学者や研究者を騙し、後代に出鱈目が伝わるのならそれを防ぐ必要があるのでは?

125 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/09 15:06 ID:xVWtiWUE
小説やドラマで、宮本武蔵は、大坂の陣で豊臣方で参加したように語られることが多いが、
最近の研究で、徳川家康の従兄弟である水野勝成のもと徳川方で参加したことが明白になっている。
ある資料には、大坂の陣で武蔵は「釈迦者仏法之為知者、我者兵法之為知者」という大きな旗をさし、
橋の上に陣取り、木太刀をもって寄せ来る雑兵を次から次になぎ伏せる有様が描かれている。


126 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/10 02:02 ID:YRF6YlDD
 武蔵が明石に住んでいたとき、夢想権之助が弟子を八人連れて訪ねてきた。
武蔵の弟子二人は驚いて武蔵に知らせた。楊弓を削っていた武蔵はここに案内するように弟子に命じ、やってきた権之助と武蔵は互いに挨拶をした。
 権之助が、
「あなたの父無二の形は見たことがあるが、あなたが無二の形を変えたそうなので、見せてもらいたい」
と願うと、武蔵は
「いや無二の形と同じなので、その必要はない」
と断った。


127 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/10 02:04 ID:YRF6YlDD
それでも権之助は
「武蔵の弟子を打太刀にして形をぜひ見せてもらいたい。」
というと、武蔵は、
「私の兵法は打太刀と決められた形を稽古するものではない。どのように打たれても対応できるものだ。あなたが打太刀になって自由に打ち込んできなさい。」
といった。権之助は喜んで自分の鉄筋入りの四尺の木刀を手にし、武蔵は二尺の楊弓を手にし立ち会った。


128 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/10 02:05 ID:YRF6YlDD
 次から次に打ち込んでくる権之助の木太刀を、楊弓で武蔵がかわし続けた。その内、権之助の木刀の先が武蔵の裾をはらった。
「あたった。あたった」
と権之助が叫ぶと
「このようなものはあたったとはいわない。これが、何の役に立つだろうか。本当にあたるということを見せてあげましょう」
と武蔵がいい、再び激しい打ち合いとなった。
すると、徐々に権之助が押され、壁まで追い詰められて、武蔵の楊弓が権之助の額を打つとたちまち赤くはれ上がった。
そこで権之助も負けを認め、武蔵の弟子となった。


129 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/10 11:11 ID:YRF6YlDD
126から128の話は、武蔵の死後、二十数年後に書かれた「海上物語」のものです。
夢想権之助と宮本武蔵の試合を描いたもっとも古いもので、かつもっとも詳しく描かれています。
多少の創作はあるでしょうが、少なくとも武蔵の死後百年後に書かれた「二天記」の記述より信頼がおけるでしょう。
「二天記」には、江戸で楊弓の細工をしていた武蔵のもとに権之助が訪れ、試合を望み、楊弓を手にした武蔵に挨拶もなく打ち込んできた権之助を武蔵が一撃のもとに倒したとあります。
なお、「兵法天下一、日本開山、無双権之助」の文字を金で書いた派手な羽織を着たいでたちは「海上物語」に書かれているものです。

130 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/10 11:29 ID:LkiqSmUd
権之助が武蔵を倒したって聞いたけど、創作なの?

131 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/10 12:17 ID:YRF6YlDD
神道夢想流の伝承では、武蔵の十字留めによって敗れた権之助が、
筑前宝満山で修行した後に杖術をあみだし、再び武蔵と立会い十字留を破ったとあります。
吉川英治の小説では権之助の母の思いによって武蔵が負けを認めるという内容です。

132 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/11 00:28 ID:eilYvwF0
そういえば、夢想権之助を主人公にした小説に佐江衆一の「捨剣」がありますね。

133 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/11 15:00 ID:eilYvwF0
文化や伝統を勝手に創造し、他流や研究者にもてはやされている現実。
ある意味、でたらめとすぐわかる事を軽はずみに発言し失笑をかっている方より性質が悪い。
悪気はないのだろうが、ネットやマスコミ、研究書によって、嘘が真実として語られ、真実として後世に残ることを恐れる。
死者の思いが徐々に真実を腐食していく。
杞憂に終わればよいが。

天仰実相円満兵法逝去不絶

この語を信じたい。

134 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/13 00:30 ID:Cfs+qSKK
武蔵の二天一流を後世に残していきたいですね。

135 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/13 23:29 ID:Cfs+qSKK
バガボンドおもしろいね

136 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/14 15:52 ID:xn93JvHU
五輪書を読むことで、武蔵の心に触れたい。

137 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/16 22:54 ID:h+H41SYQ
そういえば、バガボンドの新刊は今月でるのか。
楽しみ、楽しみ。

138 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/19 01:42 ID:G1a30dWW
なぜ、二天一流の木刀は細くて軽いんだろう?

139 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/19 23:18 ID:G1a30dWW
現在の山東派は昭和に作られたものと考えていいのかな

140 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/22 13:35 ID:OUfGtBY5
神道夢想流杖術の二刀に対する形は、二天一流を仮想している形なのかな?

141 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/24 01:51 ID:A9N0GqwV
バガボンド19巻発売だよ。
あれっ、武蔵が出てこないよ、権之助はいるけど。

142 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/29 19:00 ID:XCYbJHkO
武蔵って日本人離れしてるよねー。
脚が長くて顔が小っちゃくて。

そういえば武蔵は島原の乱で30キロ以上の鎧を着た上に
大太刀、脇差をつけて、大薙刀を振り回して奮戦したらしい。
66歳の時にw

143 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/31 10:17 ID:dExA8WtA
>>142 えっ? 武蔵は64歳で亡くなったと聞いてるんだけど。島原の乱の時は50代
じゃなかったかな?

144 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/31 10:40 ID:g3rQljAV
今、現在、二天一流で用いられている木刀と武蔵が生きている当時の木刀は切っ先などの造りが
若干違うようですね。

145 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/31 11:10 ID:xCiE1K8P
>>143
武蔵の島原の乱での年齢は、一番多くの研究者が採用している天正12年出生説によると55歳、次に多くの研究者が採用している天正10年説を採ると57歳となります。
明治時代の研究書が、武蔵の父母とされる人物が武蔵の生まれたとされる年以前に亡くなっていることと整合性を持たせるため、このような考えもできると天正元年出生説を提案しました。
その説を他に根拠もなく正しいと採用した研究者がおり、その研究者の弟子が書いた本が手頃な値段で購入できることから、天正元年出生説が世間に広まりました。それによると島原の乱での武蔵の年齢は66歳になります。
ただ、他の大部分の研究者はこの説を採用しません。


146 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/31 11:17 ID:xCiE1K8P
>>144
現在用いられている二天一流の木刀は通常の木刀より細身です。
松井家に伝来している武蔵作の二天一流の木刀はそれより太く通常の木刀に近いと思います。その木刀の切っ先は現在のものと変わらないように思いますが、違うのでしょうか?

147 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/31 11:37 ID:g3rQljAV
私が見た松井家伝来の木刀と言う物は切っ先の部分の造りが現在販売されている者と違いました。
菱になっているような感じです。

148 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/31 11:56 ID:CvJ0sPHn
シドニー(CNN) オーストラリアのABCラジオは18日、今年初めに米国で
初公開された映画「ザ・ラスト・サムライ」のヒットの影響でサムライの人気が高まり、
東太平洋地域の島嶼国家ニッポンで激減していることが判明した、と報じた。

 「ザ・ラスト・サムライ」は、環太平洋に広がる列島国家、ニッポンに生息する
サムライの親子が主人公。ペリー率いる遠征軍にさらわれ、サンフランシスコの監獄に
閉じ込められた息子のチカラを助けるため、父親のクラノスケが奮闘する物語。
DVDの発売初日には、歴代最高の800万枚を売り上げた。

 ABCラジオによると、同映画が公開されてから、世界中でサムライの需要が
高まり、ニッポンに生息するサムライの捕獲量が増大。特に、サムライが重要な
観光資源にもなっている東太平洋の島しょ国、キューシューの被害は深刻で、
数カ月間でサムライの数が激減、トクガワ政権の支配にも悪影響が及んでいるという。
 具体的な激減の程度などは不明。 (以下略)

149 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/31 15:44 ID:xCiE1K8P
>>148
武蔵作と伝えられる松井家伝来の木刀のうち、二天一流の稽古用の大小の木刀は刃部が六面だった気がします。
今用いているものと厚さ以外はそれほど異ならないように感じました。
巌流島で用いた木刀に似せて作った木刀は刃部が九面だったような。
実物を今見れないので何ともいえませんが。

150 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/03/31 18:40 ID:/Ify7aG4
ここ2〜3年前から「二天一流」用として大量に出回っている木刀は、
武蔵作と伝えられる物とは明らかに形状が違います。
丁度、剣道形用の木刀をそのまま細身にしたようなかたちで、
武蔵作よりも反りが強いです。
おそらく、剣道形用の木刀を作る機械をそのまま流用して作って
いるのでしょう。

ただ、本来の二天一流のものよりも、むしろ日本刀に近い形状の上、
安価なために結構人気が高く、二天一流の修行者よりも、居合や、剣舞、
あるいは芝居の殺陣等の稽古用として、よく売れているそうです。
144さんが見た市販の木刀は、おそらくこれではないでしょうか?

151 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/01 07:07 ID:Dfx7QYUG
私は五年以上前に東京で購入しましたが、150さんの書いているような感じの物です。


152 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/01 10:22 ID:3nt4ZzNB
武蔵オリジナルより、現在のが細い→軽いということなら、体力の差ではないですか?
武蔵は180cmくらいあったそうですし、腕力も握力も図抜けて強かったそうですから、
年配の方には同じものは扱い切れないでしょう。

153 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/01 19:05 ID:N4+pfzFQ
山東派の青木規矩男氏は野田派二天一流を評して「二刀之形五本のみ、剣理なく舞いて世人を眩躍するもの也」と。
この評はどう解釈したらよいのやら。

154 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/01 19:51 ID:YmnkJHNH
今、山東派も野田派も細い木刀をもちいてますね。
後世の弟子たちが細くしたのでしょうか?

155 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/10 02:42 ID:YRF6YlDD
>>153
理合のない踊りと、野田派の事を批判しているのでは。
推測ですけど。

156 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/12 22:15 ID:OeGNrwFq
武蔵は177センチ76キロ

157 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/13 10:41 ID:9BVtxBHQ
>>156 いつの頃の武蔵が、ですか?

158 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/20 13:59 ID:ydo1tOey
大阪の小野派一刀流の道場で二天一流の公開稽古会があるらしい。
いやはや妙な時代になったものだw

http://homepage1.nifty.com/makom/makom-home/musashikai.htm


159 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/20 18:15 ID:kNRkqJ1N
>>158
武蔵会ですね。
単に二天一流と名のられると紛らわしい気がします。

160 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/20 23:03 ID:E1pDYdzZ
>>159
武蔵会は二天一流じゃないんですか?

161 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/21 00:43 ID:wjITlaSS
>>160
二天一流を元に、形も新たに作った二刀を用いる竹刀剣道の会ではないのかな。
広義の二天一流とはいえると思いますが、本来の二天一流とは区別したほうがよい気がします。

162 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/21 03:25 ID:8D73JV3T
宮本武蔵の没年と享年は判明しているのでしょうか?
その2つが判っているのなら、かなりの事が判ると思うのですが。

163 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/21 07:47 ID:RpNI129C
>>160
本来の二天一流というのは、竹刀は使わないのですか?


164 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/21 11:41 ID:wjITlaSS
>>162
武蔵が死んだのは、正保2年(1645)5月19日。
ところが、その時の年齢は熊本市弓削の墓や小倉手向山の碑にも書かれていません。
唯一の記述が、五輪書にある
 寛永二十年(1643)十月上旬の比・・・・・・年つもつて六十
という部分です。
これを素直に受け取れば、武蔵は天正12年(1584)に生まれたことになります。
ところが、五輪書が偽書であるという説や
武蔵の養子伊織の子孫が江戸末期に書いた系図に天正10年(1582)に生まれたと記述していることから、
天正12年出生説を否定する人もいます。
さらに天正元年(1573)に生まれたという珍説を主張する人の本も出版されています。
ただ、他の剣豪に比べれば史的にわかっているいることが多いと思えます。
舟島の決闘で武蔵に敗れた岩流なる者は、慶長年間に舟島で武蔵に敗れたという事実以外は名前や没年等すべて不明としかいえないのですから。

165 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/21 11:54 ID:wjITlaSS
>>163
江戸期の二天一流は間違いなく「しない」による稽古をしておりました。
「しない」による稽古と形による稽古を両輪としておこなっていたと思われます。
江戸末から明治にかけて、現代剣道に剣術が統合されていく過程で「しない」稽古の部分が剣道の竹刀稽古に統合され、形だけが、二天一流独自のものとして残っていったと考えられます。

166 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/21 15:52 ID:kq0PU6Vl
>>165

ということは、形と竹刀を両方やってる武蔵会の方が、
江戸期から続いている本来の二天一流に近いということでつか?

167 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/04/21 16:45 ID:wjITlaSS
>>165
形と竹刀稽古を両方やっているという点では、近いといえるかもしれません。
ただ、武蔵会の稽古内容は新たに作られたものが多く、江戸期の「しない」稽古とは異なり、現代剣道における二刀の使い方に主眼がおかれているように思えます。
江戸期の二天一流の資料によると「しない」稽古はあくまで、木刀や真剣での試合に勝つための練習であるとの記述があります。
宮本武蔵からの伝統を考えると「武蔵会は二天一流ではない」と批判される方がいらっしゃるのもおかしくはありません。
起倒流柔術や天神真楊流柔術から生まれた講道館柔道が元の柔術流派とは異なるように二天一流と武蔵会は異なると思います。
武蔵会は伝統重視の古武道ではなく、絶えず進化している現代武道と考えた方が良いでしょう。

168 :名無しさん@お腹いっぱい。:04/05/02 09:16 ID:Gjebx+zc
天仰実相円満兵法逝去不絶

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